名張藤堂家邸跡:名張に居を構えた藤堂宮内家の屋敷跡(三重県名張市の旅:2024-04-20)
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三重県名張市にある名張駅周辺を2時間半ほどぶらり散歩。
今回は、名張藤堂家邸跡の様子をご紹介します。
名張藤堂家邸跡(三重県名張市)
名張藤堂家邸跡とは
城下町名張を語る上で欠くことが出来ないのが名張藤堂家邸跡です。
津藩藤堂家の一門で寛永13年(1636)から明治維新まで11代にわたり、名張に居を構えた藤堂宮内家の屋敷跡です。現在残されている屋敷は、宝永7年(1710)の名張大火で焼失した後に再建された殿館の一部で「中奥」「祝間」「圍」などの私的な生活を送る建物です。
この屋敷とともに、「豊臣秀吉朱印状」「鉄唐冠形兜・一の谷形兜」「朱具足」「藤堂高吉公一代記」「羽柴秀吉・丹羽長秀の書筒」など学術的にも貴重な文化財が、平成3年に名張藤堂家から市に寄贈されており、平成4年に保存修理事業が完了した屋敷とともに一般公開されています。名張藤堂家は、藤堂高虎の養子高吉にはじまる。『藤堂宮内少輔高吉公一代之記』によれば高吉は、織田信長の重臣丹羽長秀の三男として、天正7年(1579)近江佐和山城に生まれ、幼名を仙丸と称した。天正10年(1582)本能寺の変で信長死去の後、羽柴(豊臣)秀吉の所望により、弟羽柴秀長の養子となる(天下を望む秀吉が、柴田勝家を討ち滅ぼすため丹羽長秀と縁を結ぶためであったといわれる)。天下を手中にした秀吉は、天正16年(1588)秀長の嗣子に甥の中納言秀保を立てたため、仙丸を家来に嫁がせようと考えていた。この時、秀長の家来であった高虎には、子どもがなく、仙丸を養子に望んだが、秀長は同意しなかったという。しかし秀吉の命により高虎の養子となり、名を高吉と改め、従五位下宮内少輔に任じられ1万石を給された。
(引用元:名張市公式サイトより)
藤堂家ということで、藤堂高虎が住んでいたところと思っていましたが、違うんですね。
上記の引用文にもあるとおり、子どもがいなかった藤堂高虎の養子となった丹羽長秀の三男(高吉)が住み始めたことからはじまっており、代々の藤堂家血筋というわけではないのです。
だから藤堂家ではなく、名張藤堂家という呼び名になっているんですね。
館内は撮影禁止のため、写真でお伝えできませんが、羽柴秀吉・丹羽長秀の書簡、豊臣秀吉朱印状、柳生但馬守の書状など、当時の貴重な資料をみることができ、歴史好きにはたまらない施設になっておりました。
三重県名張市の旅はつづく。
所在地
〒518-0718 三重県名張市丸之内54−3