長篠設楽原の戦いの残響を辿る:三河東郷駅から平成の馬防柵と八剱神社へ(愛知県新城市の旅:2025-04-26)

 

三河東郷駅/平成の馬防柵/八剱神社(愛知県新城市)

飯田線沿線、戦国の地をゆく

ここ数年、私は飯田線沿いをのんびり巡る散策旅を続けてきました。

新城、湯谷温泉、そして今回訪れたのは三河東郷駅。

ローカル線ならではの静かな駅を降り立つと、時の流れがゆるやかに感じられるような空気が広がっています。

この一帯は、かの有名な「長篠の戦い(長篠設楽原の戦い)」が繰り広げられた地です。

天正3年(1575年)5月21日、三河国長篠城を舞台に、織田信長・徳川家康連合軍3万8000と、武田勝頼軍1万5000が激突。鉄砲三段撃ちという新戦法を駆使した織田軍が武田軍を打ち破ったことで、戦国時代の潮流が大きく変わったとされる戦いです。

子供の頃、私は戦国時代の話が大好きで、歴史マンガや図鑑を夢中になって読みふけっていました。そんな私にとって、この地を訪れるのは長年の夢でした。とはいえ、アクセスが良いとは言いがたく、少々躊躇していたのも事実。それでもようやく足を運ぶことができ、心の奥で「よく来たな」とつぶやいたのでした。

 

平成の馬防柵と「一筆啓上」の地

駅から北西へと歩くこと15分ほど、目指すは東郷中学校。

すると学校の前に、まるでタイムスリップしたかのような光景が現れます。

「平成の馬防柵」――これは地元有志の手により再現された、戦国時代の防御設備です。

長篠の戦いにおいて、織田・徳川連合軍が馬の突進を防ぐために設置したとされる馬防柵。それを平成19年(2007年)、かつての戦場にほど近いこの場所に再現したのが、現在の「平成の馬防柵」です。驚くべきは、この柵が学校のグラウンドや道路沿いに溶け込むように設置されていること。子どもたちの日常の中に戦国の記憶が共存しているのです。

その隣には、「一筆啓上発信の地」の看板も。

これは徳川家康の忠臣・本多重次が、陣中から妻へ送った日本一短い手紙「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」で知られる場所です。戦乱のさなかにも、家族を思う気持ちを綴ったその一文が、この地から発せられたと思うと、馬防柵の力強さとはまた違った、静かな感動を覚えました。

ちなみに「お仙」とは、本多重次の子であり、後に越前丸岡城主となった人物。福井県坂井市には「一筆啓上 日本一短い手紙の館」があり、こちらも歴史好きにはたまらないスポットです。

 


八剱神社――家康が本陣を構えた地

次に向かったのは、東郷中学校の裏手にある八剱神社。

木々に囲まれた石段をのぼると、静寂の中に神聖な空気が満ちているのを感じます。

この神社こそ、徳川家康が長篠の戦いの際に本陣を構えた場所。

高台に位置するこの地は、「高松山」「弾正山」などとも呼ばれ、軍を率いるには最適だったのでしょう。

武田勝頼軍が長篠城を包囲していた緊迫のなか、家康はここから戦況を見極め、織田信長と連携して反撃の布陣を整えました。

石段はおそらく当時からのもの。幅が狭く、足を斜めにしなければ登れないほどで、当時の人々の体格や生活感が偲ばれます。戦国の世の緊張と熱気が、今なおこの森に残っているような錯覚に陥りました。

本殿では、旅の安全と、かつてこの地で命を懸けたすべての人々への敬意を込めて、静かに手を合わせました。

 


そして戦の中心へ――設楽原決戦場へ向けて

このあとは、さらに北東へと歩き、「設楽原決戦場」へと足を進める予定です。

長篠の戦いの中心ともいえる場所であり、史跡や資料館も点在しています。

途中、「歴史の見える丘」といった興味深いスポットもあり、戦国ファンにとってはまさに夢の地。

ですが、これについてはまた別の記事にてご紹介します。

 

所在地

〒441-1305 愛知県新城市竹広

 

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