豊国神社:長浜城主 豊臣秀吉公を祀る神社 ( 滋賀県長浜市の旅 : 2024-08-24 )

 

豊国神社(滋賀県長浜市)

滋賀県長浜市の旅の最後は、豊国神社。

言わずと知れた豊臣秀吉公を祀る神社ですね。

 

豊国神社 公式サイト:https://houkokujinja.com/

 

豊国神社とは

太閤さん(豊臣秀吉公)は、天正二年(1574)の春から長浜城の建築と商家の町並みを造りに着手されました。その後、約十年のあいだ長浜町に善政を施され、大阪や京都に移住されてからも長浜町民との交流は絶える事なく続いていました。
この現われが天正十九年に公布された『三百石の地租税免除』の朱印状で、幕末まで大きな恩典になりました。

太閤さんが、慶長三年(1598)八月十八日に伏見城で逝去されますと、長浜町民は京都の豊国廟にならって逸早く豊國神社を建立しました。ところが徳川幕府の政権下では、太閤さんを神格化することは許されず、豊國神社は京都と共に取り壊されました。

それ以来、町役人十人衆が太閤さんの御神像を各家庭に隠してお祀りしていましたが、一計を案じて寛政五年(1793)に彦根藩へ『えびす宮』を建立する許可を願い出て一社を建立、太閤さんを裏に隠してお祀りしました。これが『十日戎』の始まりです。

弘化三年(1846)になりますと、太閤さんの恩徳を町民に布撫するために又々一計を練り、豊臣家の一字をとり『豊神社』と書いて『みのり神社』と呼んでいました。その名残が東の外堀に架かる「みのり橋」です。

明治維新が過ぎ、大正九年(1920)に天下晴れて『豊國神社』と名乗れるようになりますと、太閤さんをお祀りする行事が市民挙げて盛大になりました。

太閤さんの御神霊が不運だった江戸時代に、長浜の先人の発想により前立ち神になって戴いた恵比寿神の祭典も盛大に行っています。合祀神の木村長門守公は豊臣秀頼公を最後まで守護した人、加藤清正公は太閤さんの腹心の部下であった所以による神々です。

(引用元:豊国神社公式サイトより)

 

 

参集殿

 

加藤清正公銅像

 

天満宮

 

 

稲荷社

 

稲荷社拝殿の八十枠の格天井は、京都の絵師 徳力富吉郎画伯の作品で、四季の花鳥の図を表しているそうです。

稲荷神社で、こんな豪華で華麗な天井画をみたのははじめて。圧倒される美しさでした。

 

手洗池

 

本社と社務所

 

本社

向拝は檜皮葺き唐破風づくり、拝殿屋根組みは千鳥破風桟瓦葺き。神殿は神明造りで千北・勝男木(鰹木)を置き銅板葺き、江戸時代中期の建造物。(公式サイトより)

 

これにて長浜市の旅はおしまい。

 

おまけ

最後は長浜駅前にある秀吉と石田三成像

 

初の長浜市観光。

存分に楽しめました。

また定期的に足を運びたい素敵な街。また好きな街が1つ増えました。

 

地図

〒526-0058 滋賀県長浜市南呉服町6−37

 

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