石田三成陣地跡と関ヶ原古戦場 決戦地 ( 岐阜県不破郡関ヶ原町の旅 後編 : 2023-10-07 )
関ヶ原町(後編):石田三成陣地跡と関ヶ原古戦場 決戦地
関ヶ原町(岐阜県不破郡)
大河ドラマで注目を浴びている関ヶ原町に、人生初上陸してきました。
前編と後編の2回に分けてご紹介したいと思います。
- 関ヶ原町
- 関ヶ原駅
- 関ヶ原駅前観光交流館
- ふれあい広場
- 徳川家康最後陣跡
- 関ヶ原町歴史民族学習館
については、前編でご紹介してきました。後半はこの続きになります。
今回は、笹尾山にある”石田三成陣地跡”や”関ヶ原古戦場 決戦地”に向かうことにします。
まずは、関ヶ原古戦場 決戦地へ!
徳川家康最後陣跡から徒歩で12分程度。
この日は秋晴れ。
ちょうど良い散歩日和。
若干枯れ気味でしたが、彼岸花もところどころに咲いてました。大好きな花!美しい!
関ヶ原古戦場 決戦地
関ヶ原古戦場 決戦地とは
「小早川秀秋」の寝返りにより西軍が総崩れした頃、石田隊や島津隊に攻め込む東軍諸隊で、この地は埋め尽くされたといわれています。
東軍の猛攻に石田隊が壊滅し、天下分け目の戦い・関ケ原の合戦の勝敗は、わずか半日程度で決しました。
島津の退き口(のきぐち)は、ここから始まります!!
”関ヶ原古戦場 決戦地”は、田園風景のど真ん中といった感じ。
これから向かう”石田三成陣地跡”と、前に訪れた”徳川家康最後陣跡”の中間地点。
のどかで綺麗なこの地で、多くの人たちが命を懸けて戦を行なっていたとはびっくりでなりません。
ちなみにここから、”石田三成陣地跡”を一望することができます。
ではそろそろ、決戦地から、”石田三成陣地跡”へ向かいます。
石田三成陣地跡
石田三成陣地跡とは
古戦場を見下ろし、何を想う…
決戦地北西に位置する小さな山が笹尾山で、「石田三成陣跡」の碑があります。合戦時に、敵の攻撃からの防御として使われた竹矢来・馬防柵が復元されているこの場所。合戦当時、“三成に過ぎたるもの”といわれた、島左近を竹矢来の前に配置し山頂で指揮をとったようです。関ケ原は交通の要所といわれているだけに、南西にある北国街道が軍事上重要なポイントになりました。そんな背景もあり三成は島左近と共にここ笹尾山に布陣したと考えられます。この笹尾山頂上から古戦場全域を見渡せば、当時にタイムスリップし、豊臣秀吉への義を貫き通した三成に、心惹かれずにはいられません。
関ケ原合戦に敗れた石田三成が、再起を期して戦場を離脱しましたが、戦運尽きて伊吹山で捕らえられ刑死されます。刑執行前、三成は喉の渇きから護送役の役人に湯を望みましたが却下され、代わりに干し柿を差し出されますが、「(柿は)胆の毒だ」と断ると「これから他界するものが」と嘲笑されます。すると、「大志を遂げようとする者は、絶命するまで自分の命を大切にしなければならない。その気持ちはわかるまい」と三成。命ある限り忠義を全うしよう、という三成らしい逸話です。
(引用元サイト: https://www.sekigahara1600.com/spot/ishidamitsunarijinato.html )
竹矢来・馬防柵が非常に本格的に作られておりました。
この柵を当時はどう突破してたのでしょうかね。
一番隊にはなりたくない・・・。
武将姿の方が陣地跡前でおもてなしをされておりました。
笹尾山頂上までの道のりは、距離こそは100m程度で短いものの、なかなかの坂道。
登りきった際には、観光客の皆さん、汗を拭っておりました。
頂上には、展望台が。
展望台では、ちょうど、おもてなしをされている方が、解説されておりました。
石田三成陣地跡なのに、解説者は”小早川秀秋”さん(笑)
石田三成隊の旗印「大一大万大吉(だいいちだいまんだいきち)」。
「一人が万人のため、万人が一人のために尽くす。そうして天下は太平になる」という意味だそうです。
旗印もかっこいいですが、意味もかっこいい。
現代を生きる日本人の鏡ですね。
これにて人生初の関ヶ原町の旅はおしまい。
あらためて戦国時代について学びたくなりました。
今回、なくなく回避したスポットもあるので、次回訪問時の楽しみにしておきたいと思います。
地図・アクセス
所在地:〒503-1501 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原1202
アクセス:JR東海道本線関ケ原駅より徒歩20分ほど
撮影機材
iPhone 12 Pro Max(主に超広角レンズを使用)