駅前の線維問屋街:岐阜駅前、消えゆく問屋街の記憶をたどって ( 岐阜県岐阜市の旅 : 2025-02-24 )
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岐阜駅前、消えゆく問屋街の記憶をたどって
岐阜駅を降り立ち、黄金に輝く信長像を背に北へ歩いていくと、そこにはまるで時が止まったかのような風景が広がっていました。
かつて「繊維のまち」として栄えた岐阜駅前の問屋街です。
東京や大阪と同様に、岐阜でも駅前の大規模な再開発が進もうとしています。まもなく見られなくなるこの街の姿を、どうしても記録しておきたくて、今回現地を訪ね、写真に収めてきました。
このエリアは、かつてアパレル製品の仕入れの拠点でした。問屋で繊維を仕入れ、それを全国へ売りさばく拠点として機能していたのです。
実際の縫製や生産は、岐阜羽島や一宮で行われていました。
大量生産・大量消費が進んだ時代、岐阜の繊維産業はまさに“ガチャマン景気”と呼ばれるほどの好景気を迎えます。
一宮の喫茶店文化も、この産業の活況がもたらした副産物だったとも言われています。
岐阜駅前の問屋街のルーツは、戦後の混乱期にまでさかのぼります。
満州からの引き揚げ者たちが、着の身着のまま岐阜に戻り、駅前で古着や軍服を売る闇市を開いたのが始まりでした。
今の信長像の周辺が、まさにその“ハルピン街”と呼ばれた場所。
当時は服が不足しており、仕入れたら仕入れただけ売れていくという、文字通りの活況を呈していたそうです。
その後、区画整理が進み、古着からファッションへと時代が移っていきました。
今、その問屋街には取り壊された建物が目立ち、営業中の店舗の方が少ない状況です。
駅前とは思えない静けさ。
問屋町1丁目はすでに広い駐車場となっており、レインボー通りの看板は色褪せ、かつての賑わいを物語っています。
建物も、2階建ての屋上に無理やりさらに構造物を載せたような、今では考えられない“なんでもあり”の建築がそのまま残っており、違法建築ながらもその姿にはどこか趣が感じられます。
古いモザイクタイルや個性的な外装に、レトロな味わいが滲んでいました。
問屋町2丁目の通りは、直角に曲がって行き止まりになる珍しい構造。
もともと通りではなかったところに後から道を通したため、カーブしていたり、地図に載っていないような道も存在します。
雨漏り対策としてバケツやじょうろが置かれている光景にも、当時の面影が感じられました。
かつて問屋街を潰して建てられた大型ホテル「グランパレホテル」も、再開発によりその姿を消そうとしています。
こうした光景を目の当たりにしながら、あらためて思うのは、ただの懐古ではなく、「どうしてこの街が栄え、そして衰えたのか」という背景をしっかり見つめるべきだということ。
戦後の焼け野原から、なんでもやらなければ生きていけなかった時代。
岐阜駅前の問屋街は、まさにそうした時代の“人間の営み”の結晶だったのですね。
当時を知らない私でさえ、この風景を前にすると胸の奥がざわつくような、なんともいえない気持ちになりました。
消えゆくものの中に、確かに生きていた人たちの営みが見える――そんな体験でした。
◆地図・アクセス
〒500-8845 岐阜県岐阜市問屋町2丁目11