【羽黒駅周辺】羽黒城址 / 磨墨塚史跡公園:時代の主に仕えた梶原一族とは ( 愛知県犬山市の旅 : 2024-01-05 )

羽黒城址 / 磨墨塚史跡公園

 

 

犬山市にある羽黒駅周辺をぶらり散歩。

 

今回のブログ記事では、

  • 羽黒城址
  • 磨墨塚史跡公園

をご紹介したいと思います。

 

羽黒城址

羽黒城址とは

羽黒城は、源頼朝に仕えた鎌倉幕府の重臣・梶原景時の孫、梶原景親によって築かれた城である。

梶原氏代々の居城として羽黒の地を統治していたが、織田信長に仕えた梶原景久(景義)が「本能寺の変」で明智光秀と戦い討死し、梶原氏の滅亡にともない廃城となった。

その後、1584年(天正12年)に起きた小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀吉方の砦として修復され、山内一豊、堀尾吉晴が守ったという記録が残る。現在、城址には梶原氏の菩提寺である興禅寺がある。

(引用元:Wikipediaより)

 

小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉方の砦であったことは知っていて、旅の目的地として羽黒城址に行くことにしましたが、上記のWikipediaを読むと、梶原氏の歴史がなかなかに興味深い。

  • 平家打倒の兵を挙げた源頼朝が石橋山の戦いに敗れた際に匿ったのが、梶原景時。
  • 梶原景時が源頼朝に仕えて、鎌倉にて、御家人筆頭として活躍していたが、源頼朝の死後、追い出され、討死。
  • 生き残った梶原一族が、羽黒の地に辿り着き、梶原景親が興禅寺に屋敷を構え、羽黒城を築く。
  • その後、一族の末裔;梶原景久(景義)は、織田信長に仕え、三千石を領するまでに勢力を拡大させたが、「本能寺の変」で明智光秀と戦い討死。梶原氏は滅亡し、廃城となる。

源頼朝、織田信長というその時代のTOPに仕え続けた梶原氏。現代に生き残っていたら、さぞ有名な政治家か経営者にでもなっていたかもしれませんね。

 

羽黒城址の場所は、直前に訪れた興禅寺からわずか徒歩1分。

マンションとお宅の間のじゃり道がお城への入り口になります。

看板がないとまず入り口がわからないですよね。

土塁のような高台があり、石碑が建っておりました。

なお、アパートの裏にある竹藪部分が城跡だそうですが、みても城らしいものはなく、正確にどこかはわかりませんでした。

 

高台にある石碑からの眺め

さらに奥に進むことに。

簡易的ではありますが、お城の入り口がありました。

この後に訪れた磨墨塚史跡公園側からもお城に行くことができたんですね。

 

裏側のお城入り口を抜けると・・・目の前に磨墨塚史跡公園が。

引き続き、磨墨塚史跡公園に行くことにしました。

 

磨墨塚史跡公園(するすみづかしせきこうえん)

磨墨塚史跡公園とは

名馬磨墨のお墓がある公園。

公園の名前にもある「磨墨」は源頼朝の愛馬です。公園の中にある磨墨塚は梶原景時が頼朝から拝領した名馬磨墨が葬られた塚と伝えられています。名馬磨墨は宇治川の戦いで梶原景季と佐々木尚綱が先陣争いをしたという有名なエピソードの中で梶原景季が乗っていた馬です。頼朝の死後、幕府の内紛によって、梶原景時は鎌倉から追放され、京に逃れる際に、その一族はことごとく悲惨な最後を遂げたといわれています。この時、景高の子豊丸は、羽黒地区にゆかりのある乳母のお隅の方とともに名馬磨墨を伴ってこの地に落ち延びたという伝承が伝わっています。豊丸は、成人後、梶原景親を名乗り、公園に隣接する地に1201年に羽黒城を築城したといわれています。磨墨塚史跡公園では、名馬磨墨をかたどった馬の形のユニークな遊具もあり、現在に磨墨伝承を伝えています。(引用元: 犬山観光情報サイトより)

 

公園に到着して、まず目につくのが、どでかい、馬の形をした滑り台。

源頼朝の愛馬「磨墨」をモチーフにしていたんですね!家に帰ってから調べて知りました。

そして公園の中にある磨墨塚は、梶原景時が頼朝から拝領した名馬磨墨が葬られた塚だったんですね。

 

要するに、羽黒城址、興禅寺とともに、梶原氏が現在に残す歴史遺産ということだったのです!

 

なんでもない城跡、その隣の公園。

でも歴史を知ってみると、これほど感慨深く感じれる場所になるんですね。

素敵な旅の思い出になりました。

 

地図・アクセス

〒484-0894 愛知県犬山市羽黒摺墨2

羽黒駅から徒歩7分ほど

 

撮影機材

コンデジ:SONY 「RX100M6」

(JPEG 2M出力して画質とファイル容量をおさえています)

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