【伊賀上野城】高石垣の圧巻と木造天守の美!白鳳城を巡る旅(三重県伊賀市の旅:2026-07-11)

 

伊賀上野城・上野公園(三重県伊賀市)

2026年7月11日に訪れた三重県伊賀市の旅。2015年3月14日以来、実に11年ぶりとなる伊賀上野城周辺の散策記を、全数回にわたってお届けしています。

江戸時代の藩校「旧崇広堂」で感じる歴史と学びの息吹(三重県伊賀市の旅:2026-07-11)

今回は、旅の第三弾となる前回の続きです。江戸時代の藩校である旧崇広堂の歴史的な佇まいを堪能したあと、いよいよ伊賀上野のシンボルである伊賀上野城内を目指すことにしました。

伊賀上野城は、単に天守閣を見学するだけではなく、城へ近づいていく道そのものが戦国時代から江戸時代へと続く濃密な歴史を感じさせてくれる場所です。今回は「白鳳門」から上野公園に入り、「本丸大手門跡」、圧巻の「高石垣」、特有の美しさを放つ「天守閣」へ――。この順番でじっくりと歩いてみることで、伊賀上野城の持つ魅力がより深く体感できます。

乱世の歴史を秘めた「白鳳門」から緑豊かな上野公園へ

伊賀上野城を訪れ、最初にくぐったのが風格ある「白鳳門(はくほうもん)」です。

現在の上野公園は、緑が豊かで人々が穏やかに過ごせる落ち着いた公園として整備されています。しかし、ここがかつて激しい戦乱の舞台となった歴史的な場所だと思うと、歩き始めから自然と少し気持ちが引き締まります。

この地にはもともと「平楽寺」という大規模な寺院が存在していたそうですが、織田信長による激しい「天正伊賀の乱」の際には伊賀勢の重要な拠点の1つとなり、激戦のなかで焼き払われて焼失しました。

その後、天正13年(1585年)、豊臣秀吉の家臣であった筒井定次が伊賀に入国し、この地に本格的な城を築き始めました。しかし、現在私たちが目にする伊賀上野城の威容を決定づけた人物は、もう1人存在します。

それが、築城の名手として全国にその名を知られた藤堂高虎(とうどうたかとら)です。

関ヶ原の戦いの後、伊賀の地を治めることになった藤堂高虎は、慶長16年(1611年)、大坂城の豊臣方を強く意識して伊賀上野城の大改修に着手しました。名手・高虎が手掛けた城だけに、その最大の特徴となっているのが見上げるような巨大な石垣です。そんな壮大な歴史のドラマを頭の片隅に置きながら、緑に包まれた道をゆっくりと城内奥へと進んでいきます。

迫力に圧倒される日本屈指の高さ!約30メートルの高石垣

白鳳門を抜けてさらに奥へと進むと、「本丸大手門跡」に到着します。

現在は門そのものの建物が残っているわけではありませんが、重厚に組み上げられた石垣の跡などから、かつてここが城を防衛する重要な入口であったことが力強く伝わってきます。ここから先は、いよいよ伊賀上野城の核心部へと入っていきます。

そして、この伊賀上野城を訪れたなら絶対に外すことができない見どころが、本丸の西側に聳え立つ「高石垣」です。

この高石垣の高さは、なんと約30メートル。東側を除く3方に整然と巡らされており、藤堂高虎による大規模な改修工事によって築き上げられたものです。大阪城の高石垣と並び、日本でもトップクラスの高さを誇る巨大な石垣として全国的に知られています。

実際に石垣の上に立ち、上から下を静かに覗き込んでみると、その想像を絶する圧倒的な高さに息を呑みます。そして、正直なところかなり怖いと感じるほどです。

高石垣の上から下を直視してみると、足元から地表までの距離が想像以上に遠く感じられます。写真や映像だけでは、この身がすくむような迫力はなかなか伝わりません。実際にその場に立ってみると、「ここまで高く築く必要があったのか」と驚嘆してしまうほどです。

しかし、これは単なる巨大な建築物ではありません。大坂城の豊臣方を強力に牽制し、城の防御を強固にするという、当時の極めて緊緊迫した政治的・軍事的な緊張感が、この30メートルという高さそのものに表れているのです。敵軍にとっては容易に近づくことすらできない巨大な障壁であり、城と領地を守り抜くための生命線となる重要な防御施設でした。

恐る恐る石垣の上から周囲を眺めてみると、眼下には美しく区画された伊賀上野の城下町が一面に広がっています。

城というものは、単に「高い場所に築かれている」だけではありません。高い場所にあるからこそ、城下全体の動きを一望のもとに見渡すことができる。その圧倒的な視界の広さも、城主や防衛側にとって極めて大きな意味持っていたのだと実感させられます。

高石垣の上から見渡す伊賀上野の景色はどこまでも美しく、先ほどまで足元に感じていた恐怖感をいつの間にか忘れ、しばらくの間その素晴らしい眺望に見入ってしまいました。

暴風による倒壊と木造での再建!歴史を紡ぐ美しき「天守閣」

高石垣の迫力を存分に堪能したところで、いよいよ伊賀上野城の象徴である天守閣へと向かいます。

天守前広場に差し掛かると、天守のすぐそばに「忍び井戸」と呼ばれる大井戸が佇んでいます。深さ約9メートル、直径約3メートルもあるというこの井戸は、かつて籠城戦に備えて井戸の底から抜け穴が掘られていたという伝説や、忍者が城内へ潜入・脱出するための隠れ道になっていたとも語り継がれる非常に興味深いスポットです。伊賀の地ならではの忍びの秘話に触れることができ、城内に入る前から歴史ロマンへの期待感がぐっと高まります。

白く塗られた美しく優雅な3層の天守は、伊賀上野の街を象徴する存在です。「白鳳城(はくほうじょう)」という別名で親しまれているのも、翼を広げた鳳凰のようなこの気品ある美しい姿から名付けられたのでしょう。

ただし、現在聳え立つ天守閣は江戸時代から連綿と残るものではありません。

藤堂高虎が当初計画し築こうとした天守は、さらに巨大な5層のものだったとされています。しかし、完成を目前にした慶長17年(1612年)、この地を襲った凄まじい大暴風によってなんと建築途中の天守が倒壊してしまいました。その後、大坂の陣によって徳川方の勝利が確定し平和が訪れたこともあり、5層の天守が再び建てられることはありませんでした。

現在の美しい木造天守が建設されたのは、昭和10年(1935年)のことです。地元出身の政治家である川崎克(かわさきかつ)氏が個人で資金を投じ、「伊賀文化産業城」として建設された歴史を持ちます。日本の戦後に全国各地で多く造られた鉄筋コンクリート製の復興天守とは大きく異なり、伝統的な木造建築によって天守が再建された点も非常に大きな特徴です。

一歩城内へ足を踏み入れると、外から眺めた白く優雅な佇まいとはひと味違う、木のぬくもりに満ちた温かな空間が広がっています。

内部には藤堂家ゆかりの貴重な武具や甲冑、歴史資料などが整然と展示されており、戦国時代から江戸時代へと続く時代の大きなうねりを身近に体感することができます。さらに、藤堂高虎公の激動の生涯を顔出しパネルで分かりやすく紹介したユニークな展示もあり、堅苦しくなりがちな歴史を親しみやすく学べる工夫に思わず微笑ましくなりました。

そして、ギシギシと響く木の階段を上って天守最上階まで上がったら、ぜひ周囲に広がる大パノラマの景色に目を向けたいところです。

眼下には、格子状に美しく広がる伊賀上野の城下町。遠くまで視界が開けた景色をじっくりと眺めていると、ここが単なる観光用の天守ではなく、かつて城下全体を一望し見張るための重要な拠点であったことが肌で実感できます。天守からの眺めは本当に素晴らしく、地上から見上げた城の姿とはまた違った格別の魅力にあふれていました。

「石」と「木」が織りなす伊賀上野城の魅力

今回、白鳳門から歩みを進め、本丸大手門跡を抜け、圧巻の高石垣を仰ぎ見、最後に木造天守閣へと入ってみることで、伊賀上野城の本当の魅力は「石」と「木」の鮮やかな対比にあるのではないかと感じました。

一歩外へ出れば、約30メートルもの圧倒的な高さで聳え立つ巨大な高石垣。訪れる者を圧倒する、戦国の武力と鉄壁の防御力の象徴です。

一方で、天守閣の内部に入れば、伝統的な木造建築ならではの柔らかく温かみのある雰囲気。そこには武将たちが着用した甲冑や武具が展示され、歴史を生きた人々へと思いを馳せることができます。そして最上階からは、穏やかな伊賀上野の街並みを一望できます。

城内を自分の足で歩いていると、歴史というものは決して教科書の中だけの出来事ではなく、今自分が立っているこの場所で確かに営まれていたのだと改めて深く感じさせられました。

伊賀上野城と高石垣の歴史美をたっぷりと堪能した後は、上野公園内を北東の方向へと歩を進め、次の目的地である「伊賀流忍者博物館」へと向かうことにしました。忍者文化の奥深い世界については、次回のブログで詳しくご紹介しますので、ぜひ楽しみにお待ちください!

所在地:伊賀上野城

〒518-0873 三重県伊賀市上野丸之内106

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