中之院・軍人像を訪ねて|南知多の歴史の地と、平和への祈りを捧げたゴールデンウィークの旅路(愛知県 南知多町の旅:2026-05-04)
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中之院・軍人像(愛知県知多郡南知多町)
日常を離れ、南知多の歴史の地へ
ゴールデンウィーク後半を迎えた5月4日。連休特有の賑やかで活気に満ちた空気の中、私は以前からずっと足を運びたいと切望していた場所へと向かいました。愛知県知多郡南知多町にある「中之院」。そこに佇むという軍人像の姿をこの目に焼き付け、心を込めてお参りをするための旅です。
旅の始まりの舞台となったのは、名鉄河和線の終着駅である河和駅でした。
駅に降り立ち、道中の準備のために男子トイレを利用した際、異様な空気に包まれていることに気づきました。建物内には、鼻を突くような生々しく激しい焦げ臭い匂いが立ち込めていたのです。壁や天井の一部は炭で黒ずんでおり、ただごとではない雰囲気が漂っていました。
それもそのはず、この河和駅では連休直前の4月26日午前4時半ごろ、女子トイレで不審火が発生するという重大な事件が起きたばかりだったのです。さらに驚くべきことに、消火のためにいち早く駆け付けた消防隊員の隙を突き、何者かが消防車に乗って走り去るという、前代未聞の事態まで重なっていました。事件からすでに1週間以上が経過していましたが、その傷跡は深く残されたままでした。女子トイレは完全に閉鎖されて利用できない状況が続いており、隣接する男子トイレにまで煙と煤の被害が及んでいたのです。改めて火事というものの恐ろしさと、それがもたらす日常への爪痕を肌で実感し、複雑な思いを抱きながら駅を後にしました。
満員のローカルバスと、海岸線を往く車窓
河和駅前からは、知多半島の南部を結ぶ貴重な交通の足であるコミュニティバス「海っ子バス」の師崎港行きに乗車しました。
普段であれば観光シーズンであっても比較的ゆったりとしたローカルバスですが、この日は停留所に長い列ができており、車内は文字通り立錐の余地もないほどの超満員状態でした。いつもとは全く異なる熱気あふれる車内の様子に驚いていると、乗客たちの会話からその理由が明らかになりました。この時期、内海海岸の特設会場にて大規模な野外アイドルフェスが開催されており、乗客のほとんどはそのイベントへと向かう熱心なファンの方々だったのです。
満員電車のような状態で揺られること約30分、バスが件のイベント会場最寄りの停留所に到着すると、それまでの喧騒が嘘のように多くの乗客が一斉に下車していきました。一気に静まり返り、ガラガラになった車内には、いつもの穏やかなローカルバスの時間が戻ってきました。窓の外に目をやると、きらきらと輝く美しい山海海水浴場の砂浜と海原が広がっています。心地よい車窓の風景を眺めているうちに、目的の停留所である「サンタバーバラ サンセット」へと到着し、私はバスを降りました。
緑豊かな一本道と、中之院への道のり
バス停に降り立つと、目の前には広大な海水浴場が広がっています。その美しい海を背にして、ここからは愛知県道470号線の緩やかな坂道をのぼり、山側へと位置する中之院を目指して歩みを進めます。周囲はのどかな風景に囲まれており、まっすぐに伸びる一本道をひたすら歩き続けました。
歩行を始めてからおよそ30分ほどが経過した頃、知多四国八十八ヶ所霊場の第43番札所としても名高い名刹「岩屋寺」の荘厳な境内が見えてきました。ここまできたら、目的地まではあとわずかです。
岩屋寺の門前を通り過ぎ、さらに数分ほど静かな山道を歩いていくと、ついに目的の場所である中之院へと到着しました。お寺の前に広がる開放的で広大な敷地の中に、私がずっと対面したいと願っていた、あの軍人像たちが静かに佇んでいました。その数、合わせて92体。整然と、しかし圧倒的な存在感を持って並ぶその姿を目にした瞬間、言葉を失うほどの衝撃と深い感慨が胸に込み上げてきました。
一人ひとりの面影を残す、唯一無二の肖像
これらの像の多くは、1937年(昭和12年)に勃発した第二次上海事変において戦死した、名古屋の歩兵第六連隊の兵士たちの姿を今に伝えるものです。当時、兵士たちは住み慣れた名古屋城内の兵営を出発し、名古屋港から遥か異国の地へと出征していきました。そして中国の呉淞(ウースン)における過酷な敵前上陸作戦に投入されたのです。激しい戦闘の末、上陸から半月足らずという極めて短い期間の間に、部隊は壊滅的と表現せざるを得ないほどの甚大な損害を被ることとなりました。
中之院に安置されている軍人像が、他の多くの記念碑や慰霊碑と決定的に異なり、特別な意味を持っているのは、これらが「名もなき兵士の象徴」ではなく、一人ひとりが確かに実在した個人の肖像であるという点です。最愛の家族を戦争で失った遺族の方々が、国から支給された戦没者への弔慰金を投じ、残されたわずかな写真をもとにして、故人の生前の姿を忠実に再現すべく制作を依頼したものです。そのため、像をよく見つめると、それぞれの顔立ちや体格、眉の太さや口元の結び方といった表情の機微、さらには軍服の着こなしや帽子の角度に至るまで、驚くほど細部が異なっています。遺族がどれほどの深い愛情と、失った悲しみを抱いてこの像を作らせたのか、その思いの丈がひしひしと伝わってきます。
また、これらの像の大半は、愛知県を代表する孤高のコンクリート彫刻家として知られる浅野祥雲の手によって制作されたことでも有名です。浅野祥雲は、愛知県内をはじめとする各地に数多くの巨大なコンクリート像や独特の作品を残した人物であり、この中之院の軍人像たちも、彼の卓越した表現力と情熱が注ぎ込まれた非常に貴重な作品群の一つとして位置付けられています。
もともとこの軍人像は、現在の場所ではなく、名古屋市千種区にある月ヶ丘墓地に建立され、長年にわたって祀られていました。しかし、時代の変遷に伴う墓地の廃止という現実に直面し、行き場を失う危機に瀕したため、この中之院の地へと移設されることとなりました。愛知県がまとめた戦争遺跡資料の記録によれば、かつて月ヶ丘墓地に建立されていた当時は100体以上の像が存在していたとされていますが、そのうちの92体が様々な困難を乗り越えてこの地へと移設され、現在も大切に安置されています。
戦火を生き延びた像と、現代への祈り
さらに歴史を紐解くと、戦後の占領期における極めて興味深いエピソードが残されています。終戦後、連合国軍の占領下において、日本国内からは軍国主義的あるいは超国家主義的とみなされた建造物やモニュメントの撤去が容赦なく進められました。当然のように、この軍人像たちにも取り壊しの要求が突き付けられたといいます。しかしその際、当時の寺院の僧侶や関係者たちは「これは軍国主義を称賛するためのものではない。国のために尊い命を落とした若者たちを哀悼し、その霊を弔うための純粋な遺族の祈りの像である」と強く主張し、毅然とした態度で当局からの要求を拒み続けました。その必死の守護があったからこそ、像は破壊を免れ、奇跡的に現代へと語り継がれることとなったのです。
実際に像の前に立ち、一体一体と対峙していると、まるで今にも彼らが動き出しそうな、あるいはその口から生きた声が聞こえてきそうなほどの不思議なリアリティを感じます。生まれ育った名古屋の地から遠く離れた異国の海岸へと赴き、敵の激しい攻撃に身をさらしながら敵前上陸という生還を期しがたい危険な任務を遂行し、日本の未来のために若い命を捧げた先人たち。遺骨も遺品すらも手元に残らないという極限の状況の中で、残された遺族のせめてもの生きた証を残したいという痛切な思いによって建てられ、敗戦後の混乱期にも取り壊されることなく、奇跡的にこの南知多の地に佇み続けている事実。そこにある歴史の重みに触れ、胸が締め付けられるような非常に感慨深いものがありました。像の前にて静かに手を合わせ、彼らの冥福を祈るとともに、深く頭を下げてお参りをさせていただきました。
現在、私たちが生きるこの令和の時代にあっても、世界のどこかでは依然として戦争や紛争が続いており、多くの尊い命が失われ続けています。かつてこの国で起きた悲劇と遺族の悲痛な願いの結晶である軍人像を見つめながら、一刻も早く悲惨な争いが終結し、平穏で平和な日々が世界全体を優しく包み込むよう、心から強く願わずにはいられませんでした。
この深く心に刻まれるお参りを終えた後、私は中之院のすぐ隣に位置する、先ほど通り過ぎた知多四国八十八ヶ所霊場の第43番札所・岩屋寺へと改めて足を運ぶことにしました。そちらの高名なお寺の境内の様子や、そこで体験した新たな出会いについては、次回のブログにて詳しく綴りたいと思います。
地図:中之院・軍人像
〒470-3322 愛知県知多郡南知多町山海土間53


































