【円徳寺】岐阜の街なかにひっそりと佇む織田家三代ゆかりの寺院を歩く(岐阜県岐阜市の旅:2026-08-13)

 

円徳寺(岐阜県岐阜市)

2026年8月13日、岐阜県大野町にある黒野駅レールパークを訪れた後、ふたたび岐阜駅周辺に戻り、訪れたのは織田家ゆかりの円徳寺です。

円徳寺は、織田信長だけでなく、その父・織田信秀、そして信長の孫・織田秀信(三法師)まで、織田家三代と深い関わりを持つ寺院です。

楽市楽座の歴史と現代彫刻「楽市童子・楽座童子」

寺の入口には、円徳寺の歴史や織田家との関係を紹介する案内看板が掲げられていました。その中でも特に目に留まったのが「楽市楽座制札」の説明です。

円徳寺には、織田信長が岐阜の町に出した楽市・楽座に関する制札が伝わっています。これらは国の重要文化財に指定されている非常に貴重な資料です。

楽市・楽座は、商人たちが自由に商売をしやすくすることで、市場や町を活性化させる信長の革新的な政策として知られています。岐阜の町の発展を考えるうえでも重要な資料ですが、今回の訪問では制札そのものではなく、寺の入口にある説明看板を通してその歴史を知ることができました。

そして境内に入って真っ先に目に留まったのが、「楽市童子・楽座童子」の像です。

彫刻家・籔内佐斗司氏による作品で、二体の童子が愛らしく並ぶ姿が印象的です。戦国時代の「楽市・楽座」という歴史的な出来事を、現代の彫刻作品として表現しているところがとても面白く感じられました。

織田信長本陣跡と寄進された梵鐘

そして信長の時代になると、円徳寺との関係はさらに深くなります。

境内には「織田信長本陣跡」と伝えられる場所が存在します。信長は美濃攻略の過程で、この地に本陣を置いたと伝えられています。現在では賑やかな岐阜の街なかとなっていますが、戦国時代にはここが美濃をめぐる激しい戦いの舞台の一つだったのです。

織田信長といえば、岐阜城を拠点として天下統一を目指した人物として広く知られています。その信長が実際にこの場所に本陣を構えたと考えると、現在の静かな街並みからは想像しにくい戦国時代の壮絶な風景が脳裏に浮かんできます。

そして、その信長とのゆかりを今に伝える重要な品が「織田信長寄進梵鐘」です。信長ゆかりの梵鐘が現在まで大切に残されていることで、円徳寺と信長との歴史的なつながりをより身近に感じることができました。

さらに入口の案内看板で知った「楽市楽座制札」も、信長と円徳寺を結ぶ欠かせない歴史資料です。

信長は美濃を攻略すると、稲葉山城を「岐阜城」と改め、城下町の整備を推し進めました。商業を活発にするために楽市・楽座を行い、岐阜の町を大きく発展させていきます。円徳寺に伝わる制札は、そうした信長の積極的な町づくりを具体的に伝える貴重な証拠です。

「織田信長本陣跡」「織田信長寄進梵鐘」「楽市楽座制札」。それぞれが、信長が美濃を攻略し、岐阜を拠点として全国へ羽ばたいていった時代に確かにつながっているように感じられました。

父・織田信秀の戦いと哀愁漂う「伝織田塚改葬地」

円徳寺と織田家の関係は、信長よりもさらに前の時代へ遡ります。

信長の父・織田信秀は、1547年(天文16年)に美濃へ攻め込み、斎藤道三と戦いました。しかし織田軍は惨敗し、多くの戦死者を出したと伝えられています。その戦死者を手厚く弔うために築かれたとされるのが「織田塚」です。

現在の円徳寺には、「伝織田塚改葬地」が静かに残されています。

戦国時代の歴史を訪ねていると、武将の勝敗や城の攻防など、華々しい出来事にばかり目が向きがちです。しかし、このような塚を目の前にすると、その華やかな戦いの陰で多くの人々が命を落としたという厳然たる事実にも気づかされます。

孫・織田秀信(三法師)の波乱に満ちた生涯

そして、円徳寺の歴史を語るうえでもう一人絶対に忘れてはいけないのが、織田秀信です。

秀信は、織田信長の嫡男・信忠の子であり、信長の孫にあたります。幼名は三法師です。

三法師の名前が歴史の表舞台に大きく登場するのは、信長が本能寺の変で倒れた1582年のことです。このとき、三法師はまだ幼い少年でした。

本能寺の変によって信長と、その嫡男・信忠が相次いで亡くなると、織田家の後継者を誰にするのかが大きな問題となります。その舞台となったのが、歴史上あまりにも有名な清洲会議です。

会議では、織田家の重臣たちの間で後継者をめぐる様々な思惑が交錯しました。最終的に後継者として推されたのが、信長の正統な孫である三法師でした。

しかし、三法師はあまりにも幼く、自ら天下を動かせる立場ではありません。その後、織田家の実権をめぐって羽柴秀吉と柴田勝家が激しく対立するようになります。三法師は、まさにその織田家の分裂と熾烈な権力争いの中心に置かれた存在でした。

1583年、賤ヶ岳の戦いで秀吉が勝利すると柴田勝家は敗北し、織田家を取り巻く勢力図も大きく変わっていきます。三法師自身は、こうした激しい争いを自ら戦ったわけではありません。それでも、祖父・信長と父・信忠を同時に失った直後から、織田家の象徴的な後継者として歴史の中心に置かれ、その後の織田家の過酷な運命に翻弄されることになります。

やがて成長した秀信は、岐阜城主となりました。かつて祖父・信長が天下統一への足掛かりとした岐阜城を、今度はその孫が治めることになったのです。

しかし、その平穏な時代も長くは続きませんでした。1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いを目前にして、岐阜城は東軍の池田輝政や福島正則らによって攻め立てられます。激烈な戦闘の末に岐阜城は落城し、秀信も城を去ることになりました。

岐阜城落城と「織田秀信かみきり塚」

落城後、秀信が入ったとされるのが、ここ円徳寺です。

境内には、この悲劇的な出来事にちなんだ「織田秀信かみきり塚」が残されていました。

信長の孫として清洲会議で後継者に擁立された幼き三法師。その後、織田家をめぐる秀吉と勝家の争いを経て、岐阜城主となった秀信。そして最後には、祖父・信長ゆかりの岐阜城を失い、円徳寺で髪を剃って出家することになりました。一人の人物の波乱万丈な人生をたどるだけでも、戦国時代の大きな歴史のうねりが見えてきます。

さらに、その秀信の最後を語り継ぐように、境内には直木三十五の文学碑も建てられています。碑には、秀信が岐阜城を去る悲壮な場面について、次の文章が刻まれていました。

「秀信の部下は三十人しかゐなくなっていた。午後三時、秀信は城を出て上加納の円徳寺へ入って髪を剃り、十月二十八日高野山へ上ってしまった。」

歴史小説家・直木三十五が記した秀信の真実の姿です。

城を守る部下がわずか三十人となり、午後三時に秀信は城を出る。そして円徳寺で髪を剃り落とし、十月二十八日には高野山へ向けて旅立つ。「織田秀信かみきり塚」と直木三十五の文学碑を続けて見ることで、秀信という人物の最期の日々がより一層具体的に、そしてリアルに感じられました。

散策を終えて:円徳寺で感じる織田家三代の歴史

円徳寺には、信長の父・信秀の時代を伝える「伝織田塚改葬地」、信長の時代を伝える「織田信長本陣跡」や「織田信長寄進梵鐘」、そして信長の孫・秀信の運命を伝える「織田秀信かみきり塚」があります。そこに「楽市童子・楽座童子」の彫刻や直木三十五の文学碑も加わり、小さな境内の中に織田家の歴史が幾重にも重なっています。

岐阜城や信長居館跡のような広大で大きな史跡とは異なり、円徳寺は岐阜の街なかに静かに佇む寺院です。しかし実際に足を運んで歩いてみると、信秀、信長、秀信という織田家三代の誇り高き歴史が、たった一つの場所にしっかりとつながっていることが分かります。

信秀の美濃攻め、信長による岐阜の革新的な町づくり、そして三法師として後継者に擁立された秀信の数奇な人生。戦国時代の岐阜を訪ねるなら、こうした街なかの小さな寺院にも足を運んでみると、歴史上の人物たちが生きた時代をまた違った深い角度から感じることができます。

今回の円徳寺訪問では、現代の岐阜の街の中に、織田家の輝かしい栄光だけでなく、その後の苦難や悲劇までもが静かに刻まれていることを深く実感することができました。

地図

〒500-8833 岐阜県岐阜市神田町6丁目24−24

 

 

 

 

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