【知立神社・知立古城址】名鉄知立駅から旧東海道を歩き知立神社へ向かう歴史散策(愛知県知立市の旅:2026-05-30)
知立神社・知立古城址(愛知県知立市)
はじめに:知立市への初めての訪問と旅のきっかけ
2026年5月30日、この日の旅の舞台は愛知県知立市です。知立市といえば、初夏を彩る「知立公園花しょうぶまつり」が非常に有名ですが、まさにそのお祭りが開催されるという絶好のタイミングに合わせ、今回初めてこの地を訪れることにしました。
これまで知立市は、私にとってなかなか訪れる機会がなかった未開拓のエリアでした。そのため、今回はお目当てである知立公園の花しょうぶだけでなく、その周辺に広がる歴史ある街並みや魅力的なスポットも合わせてじっくりと散策してみることにしました。歩けば歩くほど新しい発見に出会える旅の様子を、全3回に分けてたっぷりと丁寧にお届けしていきたいと思います。その第1弾となる今回は、旅の起点である駅から知立神社の境内に至るまでの見どころ満載の道中をご紹介します。
旅のスタートは名鉄知立駅から!変貌を遂げる大規模な高架化工事
今回の旅のスタート地点は、名鉄名古屋本線と三河線が交わる名鉄知立駅です。普段、名鉄三河線を利用して乗り換える時以外ではほとんど駅の外に出ることがないため、改札を出て街に一歩足を踏み入れるだけでも非常に新鮮な気持ちに包まれます。
現在の名鉄知立駅周辺に降り立ってまず目を引くのが、街全体を包み込むような活気と、大規模な高架化工事の真っ最中であるという景色です。知立駅の周辺では、長年にわたり交通渋滞が大きな地域課題となっていました。その抜本的な解決策として、名古屋本線と三河線の線路を高架化し、周辺にある10か所の踏切を一挙に廃止するという非常に大規模な都市交通事業が進められています。
この壮大な高架化工事がすべて完了するのは2030年度の予定で、さらに駅周辺の区画整理や環境整備まで含めると、最終的な完成は2031年度になるとのことです。未来に向けて新しく生まれ変わろうとしている街のエネルギーがひしひしと伝わってきます。すべての工事が完了し、近代的で美しい街並みが完成したときには、ぜひまたこの場所を訪れて、今との違いを体感してみたいと強く思いました。
現在の駅前にはすでに大きなロータリー広場や、機能的に整備されたバス停留場が設けられており、地域の人々にとって非常に利用しやすく快適な空間が広がっていました。これからの発展がますます楽しみになる、そんな素晴らしい出発点です。
旧東海道に沿って北へ:宿場町「池鯉鮒宿」の歴史と地名の深い由来
知立駅から歩みを進め、ここからは旧東海道に沿って北へと真っ直ぐ進み、地域の象徴である知立神社を目指すことにしました。実は、このあたり一帯は江戸時代に大いに栄えた東海道の宿場町「池鯉鮒宿」の中心部にあたります。歴史の教科書や古い資料を見ると分かりますが、昔はこの地域は「知立」ではなく「池鯉鮒」と書かれていたのです。この独特で美しい漢字の並びには、一体どのような背景があるのでしょうか。
調べてみると、地名の由来には非常に興味深い説がいくつか残されていることが分かりました。1つの説としては、現在の知立神社周辺には古くから多くの池や広大な湿地帯が存在しており、そこにはたくさんの魚が生き生きと生息していたことから、もともとの「ちりゅう」という音に対して「池・鯉・鮒」という非常に縁起の良い漢字を当てはめたというものです。また別の伝承では、まさに知立神社の周辺にあった池に本物の鯉や鮒が数多く泳いでいたことから、その光景がそのまま地名の由来になったとも言われています。
その後、明治時代を迎えると、日本全国で近代的な行政制度が次々と整えられていく中で、各地の複雑な地名の表記も一斉に整理されることとなりました。その過程において、現在の公式な行政地名としては、よりシンプルで分かりやすい「知立」という表記が正式に採用され、今日に至っているそうです。文字の変遷をたどるだけでも、その土地が歩んできた豊かな水の歴史が浮かび上がってくるようで、散策の足取りも自然と楽しくなってきます。
歴史の面影を今に伝える「知立古城址」:戦国から江戸への変遷
駅から旧東海道を歩いていくと、まず最初に現れる歴史的な重要スポットが「知立古城址」です。
この知立古城址は、知立市西町にある西町児童遊園という小さな公園の敷地内にひっそりと残されている中世の城館跡です。現在は、子供たちが遊ぶ静かな公園の一角に記念の石碑や解説板が立てられているのみとなっているため、一見すると「ここに本当に昔、お城が存在していたのだろうか」と思ってしまうほど周囲の日常風景に溶け込んでいます。しかし、ここは知立の歴史を深くひも解くうえで決して欠かすことのできない非常に重要な史跡なのです。
歴史を遡ると、知立神社の神官を代々務めていた高貴な一族である永見氏が、ここを居城としていたと伝えられています。歴史の大きな転換点となった桶狭間の戦いの際には、今川方の軍勢がこの城に在番していたとされています。しかし1560年、桶狭間の戦いにおいて総大将の今川義元が織田信長によって討ち取られて敗れると、この知立城も連動して織田軍の猛攻を受け、あえなく落城の憂き目に遭いました。
戦国の嵐が吹き荒れた後、この地は刈谷城主であった水野忠重によって整備され、立派な御屋形が建てられました。江戸時代に入ると、将軍が京都へと上洛する際の重要な休憩所や宿泊所として大いに利用されることとなります。ところが1699年の元禄12年に発生した大地震によって、建物は惜しくも倒壊してしまいました。その後は再び再建されることなく年月が流れ、現在の姿に至っています。
激動の戦国時代から、宿場町として栄えた江戸時代へと移り変わっていった知立の街の昔日の姿を頭の中で想像しながらこの場所に佇んでみると、何気ない公園の風景が一段と感慨深く、より興味深いものとして心に迫ってきます。
道中でのユニークな発見:歩行者とドライバーに優しい珍しい信号機
知立古城址のすぐ北側には、厳かな雰囲気を漂わせる了運寺があり、さらにそのすぐ近くには、知立名物として全国的にも有名な「できたての大あんまき」を味わうことができる名店「小松屋本家」が店舗を構えています。ここからは一度、旧東海道のルートを外れて、知立神社へと真っ直ぐ向かう道沿いを進むことにしました。
この道中には、信仰を集める信貴山毘沙門寺や、伝統的な知立まつりの山車などが保管されている場所などを次々と通り過ぎていき、やがて交通量の多い国道155号と交差する大きな交差点に差し掛かります。ここで国道155号を安全に横断するのですが、この交差点で非常に面白いユニークな光景を発見しました。
まず、横断歩道を渡るための歩行者用信号機に目をやると、驚くべきことにその形が通常とは全く異なっていました。普通、歩行者用信号機といえば縦型で、上に赤、下に青が並んでいるのが当たり前ですよね。しかし、ここの信号機はなんと珍しい「横型」になっており、左側に青、右側に赤という配置になっていたのです。一瞬、自分の目を疑ってしまうような全国的にも滅多に見られない珍しい仕様で、こうした旅先ならではの不思議な発見に出会うと、散策の途中でとても楽しい気持ちになります。
さらに、国道155号を無事に渡って知立神社側へと続く道へ進むと、今度は車両用の信号機が驚くほど低い位置に設置されていることに気が付きました。一般的な交差点で見上げるような高さにある信号機と比べると、明らかに「ずいぶん低い位置にあるな」とはっきりと認識できるレベルです。周囲の景観や道路の構造上の理由によるものかもしれませんが、これもまた他では滅多に見られない大変ユニークな特徴であり、街歩きならではの醍醐味を味合わせてくれました。
古代から近代までの歴史が凝縮!見どころ満載の知立神社境内
ユニークな信号機の交差点を過ぎると、いよいよ今回の散策のハイライトである「知立神社」の壮大な境内へと入っていきます。
知立神社は、知立市を代表する屈指の古社であり、その歴史の深さは圧倒的です。社伝の伝えるところによれば、第12代景行天皇の時代、あの有名な日本武尊が東国平定を成し遂げるための祈願をこの地で行ったことが創建の由来とされています。平安時代に編纂された格式高い『延喜式』神名帳にもしっかりと「知立神社」の名が記載されているほどの由緒を誇ります。三河国二宮として地域の人々から絶大な崇敬を集め、江戸時代には東海道三社の一つにも数えられるほどの隆盛を極めました。かつては「池鯉鮒大明神」という名で広く親しまれ、東海道を旅する熱心な旅人たちからは、旅の安全を守る「まむし除け」のありがたい神様としても深く信仰されていたそうです。
威厳のある大鳥居をくぐって一歩中へ入ると、それまでの賑やかな街中にあるとは思えないほど、静寂に満ちた厳かな空気が境内全体に広がっています。まず最初に参拝者の目を釘付けにするのが、ひときわ圧倒的な風格と美しさを感じさせる見事な「多宝塔」です。この建物は室町時代の1509年の永正6年に再建されたもので、現在は国の重要文化財に指定されています。かつての神仏習合の歴史を現代に伝える、知立神社の象徴とも言える貴重な建築物です。明治時代の激しい廃仏毀釈の嵐を奇跡的に免れたからこそ、今こうして目の前で見ることができるわけで、その存在自体が歴史の奇跡と言えます。
さらに境内を奥へと進むと、美しい「神池」が姿を現しました。池の水面には色鮮やかな鯉たちが優雅に泳いでおり、ここには古くから伝わる「片目の鯉」の伝説も残されています。そして、この神池の存在こそが、江戸時代に「池鯉鮒」という漢字で表記された地名の最大の由来の一つとも言われています。池のほとりに立ち、悠々と泳ぐ鯉の姿をじっと眺めていると、それまで教科書の中の文字でしかなかった「池鯉鮒」という昔の地名が、急にリアリティを持って身近に感じられてくるから不思議です。
参拝の途中、社務所に立ち寄って貴重な「宝物展」も見学させていただきました。
展示されている数々の至宝の中でも、特に私の心に強く印象深く残ったのが、圧倒的な迫力を放つ「能楽面」の数々です。長い年月を経て磨かれてきた古い面が持つ独特の深い表情には、時代を超えて現代の私たちを見つめ返してくるかのような不思議な精神の力が宿っていました。鎌倉時代以降に作られた貴重な舞楽面や、室町時代の精巧な能面など、知立神社がこれほどまでに価値ある素晴らしい文化財を大切に守り伝えてきたという事実に、深い感銘と驚きを禁じ得ません。
その後、厳かな拝殿へと向かい、日頃の感謝を込めて丁寧に参拝を行いました。
拝殿の周辺や境内のさらに奥へと歩みを進めると、今度は「お万の方(長勝院)」の気品ある石像が静かに佇んでいました。
お万の方は、ここ知立神社の神主の娘として生まれ、後に天下人である徳川家康の側室となり、結城秀康を出産したことで歴史に名を残した偉大な女性です。知立神社と徳川家との間に、これほどまでに密接で意外なつながりがあったのかと、歴史のロマンを深く実感させられる場所でした。なお、知立市が発行している詳細な歴史資料によると、お万の方は家康との間に双子の子供をもうけており、そのうちの1人が、後に知立神社の神主を継ぐこととなった永見貞愛であるとされています。
そして、今回の知立神社の参拝において、私が最も心を奪われ、深く魅了された建物が、境内の西側に美しく建つ「養正館」です。この建物は明治時代に建てられた本格的な洋風建築であり、もともとは地域の発展を支えた明治用水の事務所として建設され、その後は子供たちの学び舎である学校としても広く利用され、1935年の昭和10年にこの知立神社の境内へと移築保存されました。日本の伝統的な古社の境内に、気品ある明治の近代洋館が違和感なく溶け込んで佇んでいる光景は、実に絵になり、深く印象に残ります。
重要文化財の多宝塔、地名のルーツである神池、歴史を物語る能面、徳川家ゆかりの歴史人物の石像、そして明治の薫りを残す養正館。この知立神社は、わずか1回の参拝の間に、古代の神話の世界から中世、近世、 painted な近代に至るまでの気の遠くなるような日本の歴史を、自分の足で一歩一歩歩いているかのような贅沢な気分にさせてくれる最高の神社でした。
おわりに:次回予告と知立公園への期待
知立神社の素晴らしい歴史を満奢し、大満足の参拝を終えた後は、いよいよ本来の目的地であり、今回の旅のきっかけともなった境内の東西に隣接する「知立公園(西公園・東公園)」を見学することにしました。
知立公園での素晴らしい体験や花しょうぶまつりの具体的な様子については、次回のブログ記事にて詳しくご紹介したいと思います。どうぞ楽しみにお待ちください!
地図(知立神社)
〒472-0023 愛知県知立市西町神田12




















































